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西益津中三年になった名波は主将に指名された。そして県内で開催された昭和62年度全国中学総体サッカー大会にも出場。開幕では選手宣誓の大役まで命じられた。当時のサッカー部副顧問で名波の学級担任だった益田修教諭(50)=現藤枝市立広幡中=は、名波の成長ぶりをこう語る。
「サッカーで力があることをひけらかすことをしなかった。不言実行タイプの主将。同級生や下級生は彼の後姿を見ながらついていった」。チームメートが監督からしかられても名波は「気にするな」と、絶妙の気配りを見せた。名波は全国中学総体でフルパワーのプレーを見せた。西益津中は全国中国総体で3位の好成績を収めた。優勝こそ逃したものの、名波の胸には「よくやった」という気持ちがわいてきた。
中学最後の大会を終えた名波は、進路先の決定に迫られていた。それまでは藤枝市内への高校進学を希望していた名波だが、東海中学選抜の解散式を終えて気持ちは揺れた。選抜メンバーの大半が清水市内への高校への進学を決めていたのだ。そして11月初め、名波は益田教諭にこう切り出した。「清水市商高で自分がどこまでできるか、力を試したい」清水市商高は昭和61年全国高校選手権で初優勝。選手層は厚い。名波の力がどこまで通じるかは未知数。しかも出身の藤枝を離れ、慣れない環境での生活は不安が残る。だが、サッカーでさらなる飛躍を目指す名波は初めて、一つのかけに出た。 |
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