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プラティニ、ジーコ、マラドーナ、バッジォ…
彼らの背中には背番号10がある。 彼らは、チームの心臓として絶対的なゲームメーカーとして活躍した。 そもそも「背番号10=ゲームメーカー」と捉えられるようになったのは、
マラドーナの活躍によるものである。
マラドーナと言えばドリブルのスペシャリスト。彼にあこがれ、真似をし、プロになった選手は少なくない。しかし、90年代後半になると、背番号10が持つ意味合いが変わって来ている。
それまでは「ゲームメーカー」と呼ばれ、中盤の中心として君臨する選手が付けていたものだが、近年はFWに近い選手、またはFWの選手が付けるこ
とが多くなった。例をあげれば、デルピエロ、トッティ、リバウド、ジダン、オーウェンなど である。彼らに共通するのは、皆高い得点能力を持つと言うこと。さらに、
決定的なチャンスも見方に供給できる。それはファンタジスタと呼ばれるプレーなのだ。
日本ではどうだろう。
これまで、10番を付けた選手は数多く存在する。その中でも、木村和司、ラモス琉偉は代表的な選手だ。 両氏ともゲームメーカーという存在であり、存在感も際立っていた。ラモスが去った後、代表の10番のユニフォームはしばらく迷走していた。
岩本、磯貝、藤田…と渡り歩いたが、相棒を見つけるまでには、それほど時間はかからなかった。名波浩の登場である。名波は代表デビュー時は14番だったが、代表数試合目のある日、14番のユニフォームを探していると、そのユニフォームには「OKANO」と書かれており、自分の背番号は10番になっていたというのは有名な話だ。
「名波浩=10番」が定着したのは、96年のキリンカップである。
このキリンカップで名波は2列目の左サイドに入った。左サイドバックの相馬とのコンビネーション、サイドチェンジ、
スルーパスなど、すべてが絶妙のタイミングから繰り出され、 それが正確だった。 このキリンカップで、名波は代表に不可欠な存在になり、そして、10番は彼のものになった。
96年アトランタオリンピックの終了後、前園が代表に定着することになる。当時の代表監督、加茂は前園を2列目で起用させたかった。しかし、名波と
ポジションがかぶってしまうことになる。加茂は悩みぬいた末、名波のボランチ起用を決断した。
名波は攻撃的な位置でプレーをしたかった。ボランチを任命された時、
名波は「やりたくない」と思ったらしいが、ボランチは彼の天職だった。実際にベネチア在籍時にはボランチでのプレーが一番安定し、
力を発揮していた。
彼がボランチをすることにより、前を向いてプレーする機会が増え、彼の状況判断が生き、正確なロングパスも冴える。
名波は、これまで10番を付けてきた選手の中でも、最も多くのポジションをこなした選手のうちの一人と言える。第2列、ボランチ、アウトサイドなど中盤であれば、ほぼすべてのポジションをこなし、JリーグではサイドバックやFWまでも経験している。
時代に沿った10番ではないが、間違い無く日本が誇れる10番である。現在(2003年1月)は、10番は中村俊輔がつけている。しかし、2006年ワールドカップも10番をつけた名波浩がピッチに立っていることを望んでいる。
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